昭和51年08月28日 朝の御理解
御理解 第67節
「何ごとも釘づけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」
何事も釘づけではない。信心もやはり釘づけではないではなくて、その釘づけであってはならんと思うです。同じ教祖様の御信心が、まぁ言うならばこの教典一冊に、まぁ収められておるとまぁ言うてもいい訳でしょう。金光大神覚えとか金光大神と言う様なご本を読ませてもらうと、いよいよそれが克明に、教祖の神様がどういう生きられ方をなさったかと、言った様な事が分かる訳ですけれども。
その表面に出ておる活字に表れておるというだけで、云々しておると言った様な信心ではなくて、段々信心が深く広く追求されて行かなければならない。もう限りなくそれが進展して行くのである。だからもう釘づけであって良かろうはずがない。絶えず前進前進と申しますか、進んで行かなければなりません。そこでお互いの信心を思うて見る時に、果たして進みょるだろうかと思わなければいけません。
昨日のお話の中に宮崎からの延岡ですから、初めて先日田中さんのここの田中かよこさんのお母さんですね、田中恵美子さんのお導きで参って来た親子が、主人は長年の肝臓、子供は皮膚病と体中。そのためにまぁいわばお参りをして来た。そしてお月次祭を頂いて朝の御祈念を頂いてそして帰らせて頂いて、もうそれこそ有り難い有り難いで帰らせて頂いた。そしたらあの子供のその湿疹が全部綺麗になっとった、ということを話させて頂いたが、昨日ちょうど御祈念が済んでからまた田中さんから電話がかかって来た。
実はそのうご主人の肝臓のお願いがしてあったのが、そのう奥さんがこちらへ参られた日から、すっかりおかげを頂いておるということであった。けれどもまぁ照れ臭いていうか、何んか今日までもそれをそのう、おかげを頂いてあるということを言わなかった。それを奥さんが聞いてもうそれこそビックリして、またその田中先生んところへ、そのう主人がこういうおかげを頂いておるという訳です。それは子供よりも早い。
もう家内がその日参ってお月次祭を頂きよるじゃろうという時分から、おかげ頂いて1日から2日丁度23日のお月次祭ですからね。1から2日はまぁ又は調子が良い位やったところが、今日になってもそれが全然その症状を感じない。それでまぁすっかりおかげを頂いておるということが、四日振りですかにその言われて、それから新たにまたお礼のお届けがありました。その事を私神様にお礼を申させて頂いておりましたらね、あのううどんを食べておる時にコショウをこうやって入れておる所を頂くんです。
うどんと言うてもこれは代用食ですよね。その代用食に薬味を入れておるようなもんだということです。言うならば奇跡的おかげと言った様なものは、言うなら薬味ぐらい代用食位にしか当たらないのだと。この頃から熊本の方のお話をでしたかね。3ヶ月前にアメリカに行っておる子供さんの赤ん坊の名前を、3ヶ月前に頂きに来て頂いておった。3ヶ月後に向こうから通知が来た。もう家は息子とばっかり思うておったもんだから、息子の名前は色々考えとったけれども。
娘の名前はまぁして名前があんまり好かんとか何かと言うてそのう言いよった。けれどもそれでも実際アメリカの方から通知が来たのには、やはり娘安産と言う事であった。それからあただにその頂いた名前を、まぁ詳しい人に尋ねた所が、この名前は将来大変家繁盛する名前だと頂いて、あただに良くなってその親先生から頂いておった名前をそのまま命名させて頂いた。3ヶ月間の間とは言えお粗末ご無礼を思うて来た事を、どうぞその子供のめぐりにでもならん様にお届けをしてくれ、というお詫びの手紙であった。
それを聞くとね信心の世界というものは、実に不可思議、奇妙なものに感じられますけれども、そういう信心がです、もし今合楽で毎日日参でもなさっておられる方達が、そういう奇跡を願われるような信心に、止まっておるとするならばです、これは大変これは言うなら、神様の目からご覧になるなら悲しい事だということです。言うならば子供がいつまでもおやつをねだる様に、もう大人になってからおやつをねだるような、私はものだということです。
だから皆さんの心の中にそういうのを、例えば軽蔑軽視すると言う様な事は勿論いけません。初めの例えば人達はそういうなら、奇跡的なおかげを頂いて、はぁなるほど神様じゃなるほど信心は有り難いと言うて、信心が頂かれる訳ですから。けれどもそういうことからではなくて、いよいよ神様の何たるか、言うなら私共が生かされて生きてあり、いよいよ天地の御恩徳の中に御恩恵の中にあって、日々広大無辺なおかげの中にあるんだというところに、神恩報謝の心が湧いて日々が神恩報謝の生活。
見るもの聞くもの全てが神様のお恵みのものであると分かって行く信心。そういう喜び現れて来る所のおかげ。そういう信心が分かって有り難い事が体験させて貰うて、実感させて貰うてその実感におかげの言うなら実感です。そのおかげの実感に実際のおかげが言うならば、商売なら繁盛するだろう病気ならば病気もまた癒えるだろう、人間関係はスムーズになって来るだろうと。
やっぱり信心させて頂く者の親のある子のない子の違いを、実感させて頂きながらの生活が。段々出けて来らなければならないと言う事。信心をしておって奇跡を願う、夢の様な事を思うておるという信心が、もし続いておるとするならばです、私は今日は何事も釘づけではないということを、そうです信心は特にです釘づけではないじゃなくて、信心はもう取分け釘づけであってはならないということです。限りなく進んで行かなければならないということです。
昨日は宮ノ陣教会で信徒会が持たれております。とれでくあの子供への若い者への信心の継承と。親として子供に信心をどう受け渡しするか、と言う様な体験を求めてからのお話。それを合楽からどなたか一人お話をしてくれ、と言う事でございましたから、まぁどの方にして貰おうかと。まぁ合楽で親と子の事で言うなら、もう皆んなが殆どが言うなら、家族勢を揃えた信心が出けておられるからどなたでもお話が出けられる。取分け昨日は私学院生が今日皆五人とも帰ります。それでレポートを提出しなきゃならない。
それであのう全部昨日作成して五人の者がここに持って参りました。今度は教会長のその判がいると言うので、まぁいい加減な事は出けないわけ。で五人のレポートを読ませてもらってから、もうその五人が五人とも感心しました。とても私なあげな表現なしやきらん。やっぱり小学生と中学生、高校生とはこんなにも違うもんだろうかと、私は昨日は改めて思いました。しかもその五人が五人全然角度が違ったところから、その合楽をいわば語っておる訳ですけれども素晴らしいです。
そん中に永瀬君が書いておりますのは、親の信心を通して合楽の信心が段々分かって行く過程を、もう実に見事に表現してました。ですからならこれをお父さんの永瀬さんから話させたら、もっと素晴らしい事だろうと思うんですよね。子供がそういう頂き方をしてるんですからね、だからそういう言うならば、今全教ではです親は信心するけれども子供に信心がない。若いもんと言うたら大きい教会であるほど、もうお年寄りのお爺さんやらお婆さんばっかりだというのが、嘆きなんです金光教団の今。
例えば合楽で殆ど幹部の方達も、十年も信心を続けておるというなら、先ずは殆ど家族勢を揃えて信心がしてあると言う様な事やらは、もうそれこそ一つの不思議なくらいです。合楽にたいして信者はおらんけれども、合楽にはおかげを頂いて家族勢を揃えた信心が出けるから、一つのやっぱ大きな力になるんだと言う様な事は、もう本当にあの教団の人達がどうして若い者に、信心が継承致されないかと言った様なところに、いつも問題になっておる訳です。
だから合楽の方達が体験発表されるなら、どなたがしなさっても良いのですけれども、私はだからどなたにして貰おうかと迷うておるところへ、ちょうど稲垣さんがあのうお夢を頂いたというお知らせを、4、5日前ここでお届けがありました。あぁそりゃんなら私が今思いよる事の、今度の宮ノ陣の発表は貴女がなさらにゃいかんだろうと言うて、昨日確かに稲垣さんが発表された事だと思います。
昨日も朝の御祈念に参って見えられて、先生今朝方からこう言う様なお夢を頂いたと、こう言うんです。あずきがあるもち米がある。それを炊いてですね、もう一生懸命あずきとその餅米とを、こうやって練り合っておるところを頂いた。そりゃまぁ今日の共励会のこっじゃろう、練り合うちゅうこつは。けれども本当は赤飯に炊かなければいけない。それに、あずきと餅米と練り合わせたじゃいかん。だからよく信徒会で言われるのは、そのう良い指導者がいない。
それで信心の少しばっかり分かった連中が、一生懸命あぁでもないこうでもないと言うて練り合いということは、却って悪弊すらあるような場合があるということ。そこで先生方がもう信徒会というものをあんまり喜ばない。ちいっとばっかり信心を出来たり、おかげを頂いた人がもう、いかにもこれが本当だと言う様な表現をすると、先生が教導をなさるのに非常に教導がし難い。と言うて信徒会の共励会が、あんまり評判がよくないのはそういうこと。
間違いのない人が教導するなら良いけれどもね、どんぐりの背比べで言うならば練り合いをするのは、討論会になって終わる様な事になって来る。だから練りね成程教祖様も話を聞くばかりが能ではない、わが心からも練り出せと仰るから、練り出して行かなきゃなりませんけれども、それはおかげの頂けれる方に練り出して行かにゃいけん。有り難くならせて頂く方に、練り出させて行かにゃいけんです。いよいよ信心修行がもっと本格的なものになって行く事に、練り出さなきゃいけないのに、話を聞いて分かった。
あぁばさらか参るばっかり、修行だけじゃいかんと言った様な事が分かるとするなら、やっぱおかしいですよね、その答えがですやはり今日の御理解で言うなら、釘じゃない一段とね向上した方に分かって行くような、練り方でなからなければいけないと言うのである。その次がまたそのあずきと餅米を一生懸命練ったので、それを山に持って言って、沢山のその墓標を、小さいこの位ばっかりの墓標を作っておると言うのである。私はその事を今朝からこの67節を頂いて思わせて頂いた。
だから合楽の人達の場合は、どう在らなければならないか。赤飯炊いて祝うようなと思われるようなおかげを、皆さんが頂いて日々ね、そしてそれをね墓標にして行くという事はどういうことかと言うと。どんな問題であってもね、合楽流に信心を練り合うて行くならばです、必ず問題であっても問題が無くなるということである。言うなら有り難いという答えだけしか出て来ないと言うのである。限りなく美しゅうなりましょうやというね、合楽の人達の合言葉のような生き方を見につけて行ったらです。
もう即そこにあった問題は解消するということである。人間の汚い心、我情我欲が問題を作っておるのであるから、その我情我欲が無くなって美しい心になる時には、もう問題はそこにはないと言うのである。ないということは空しゅうなる。ということはその墓標を作っておるというのがそうである。そこに合楽の御信者さん方が一杯ある。あれは自分の墓標、これは自分の墓標と言う様にです。だから合楽で今信心をしておる方達がですね、信心は言うなら今日の私の表現で言うならばですね。
何事も釘づけではないと言われるが、ここんところを信心は釘づけであってはならないということ。もう五年も十年も言うなら合楽で信心の勉強をしておるならばです、もう奇跡でも奇跡ども追い求めるような信心であっては、それは代用食のまた代用食。言うならば薬味的なものであるということ。お腹の中の赤ちゃんの名前ばね、頂きたいと言った様なね、信心からはもういよいよ脱皮してね、最初に申しましたように天地の大恩が分かり御恩徳を感じね。
御恩恵の中にある事を実感して、生かされておる今日を只今をね、神恩報謝の心を持って生活をさせてもらう。そこにはね神様のそれこそそういう奇跡的なおかげやらは、もう頂かんで済むほどしの、日々素晴らしい言うならば貧争病のない世界。いよいよそれが信心の真を現して行くことによって、真善美輝かんばかりのおかげを頂いて、その光の輪をいよいよ周辺に広げて行こうと言う様な信心に、もう合楽の方達はそういう、一線上に出ておらなければならないということなんです。
それには先ず自分がどんな問題であっても、自分の我情を出さず我欲を出さず、ここを改めなければ、もう改められないということであっても、それを改めるということを御取次願って、その一線上に出らせて頂けれる、有り難い信心に現在はなさなきゃいかん。しかもこの一線上に出てから、これから先の信心というのは、もうこれは死ぬまで限りがない。いやあの世までもまだ限りがない続いて行く事であろう。天地の大道をいよいよ極めて行こうと、喜びをいよいよ深い高いものにして行こう。
おかげはもういやが上にこれに伴うて来るであろうという、おかげの頂けれるところへお互いが出ておらなければならない。そういう言うならばところに合楽の方達はおらなければいけない。そこでお互いが自問自答してみてね、信心は修行は半端にゃせんなね、時々は奇跡的なお話を聞くそのね、それこそ棚から牡丹餅が落ちて来るような、おかげだけを願うておるような、心の中に厳密に言うてありはしないだろうかと反省して。いよいよ本当の信心にならせて貰わなければならないということです。
昨日ここ一昨日から昨日にかけてお話致してる、金光様の御信心させてもらうなら、もう何と言うても人間の輪。取分け親子の仲ね。家の親はどげん親孝行しようと思うても、家の親にはされんというぐらいな、言うなら冷たい親であってもね、親が親足らずとも子は子足りる。そういう心が湧かんということが不思議だと思うて御取次を頂いて、どうでも親孝行させて下さいという願いを持たせて頂く信心。もう信心のもう合楽で言う根本は、親孝行が出けん者は絶対本当なおかげは頂けんと。
私は絶対を繰り返しながら皆さんに聞いて頂いたですね、一昨日から昨日にかけて。そのお届けをされた方がです、いいえもう私は家の親には孝行は出けんて。家の他所もう他んこつならともかく、もう家の親にだけは孝行は出けんと言うておった人がです、お話を頂いてやはりほんなこて、親先生が言う様に一つ本気で神様に願おう。毎日御取次を頂いて、親のお届けはさせて頂いておるけれども、本気で願うた事がなかった。本当に先生があぁ言うから、やっぱ信心のおかげの根本と言うから。
本気で願おうという気になったら、昨日のお届けの中に、昨日はいつも親子三人で、夫婦子供と三人で大払い信行を毎晩なさる。そしたらもう本当に私はもうそれを聞いてから、本当にもう手叩いて喜ぶごと嬉しかったんです。母が後ろから一緒に来てから御祈念しておりましたと言うのです。願えばやっぱりおかげになると言う事です。しかも神様が一番喜んで下さる事ですから。家の親にはとてもそれこそ鬼のごたる蛇のごたると言う例えば親であっても、それこそ嫁御から言うならば主人を育てた親である。
また自分自身としてはね、やはり自分がここまで手足を伸ばせて頂いて、最高額でも出させて貰っとったと言う様な、おかげを頂いておると言う事は、やはり親のおかげである。親孝行しようとも思うばってん家の親だけにはされん。けれどもそこを御取次を頂いてさせて頂こう。いわゆる信心が釘づけではない。御理解を頂くその所から本気で御取次を頂こう、願おうという気になったらね。その親が後ろから一緒に御祈念をして。大払い信行に参加したという御取次を聞かせて貰うてね、やっぱ願わなきゃいかん。
いわゆる信心が釘づけであってはならん。もうこれだけはと言うて諦めてはならんということです。何事も釘づけではないと言うておられるが、信心は釘づけであってはならないということ。そして今合楽での皆さんの信心はですね、言うなら代用食的なおかげであってもならない。それに対する薬味的なおかげであって、もう勿論その代用食もよかろう。また薬味もある事は有り難い。けれどもそれは願わずして頂けるものであってね、奇跡を願い、ただ目先の事のおかげを頂きさえすれば良いというのではなくて。
そういう願いは御取次を頂いたら御取次に、金光大神にお任せしてね、自分達は銘々いよいよ本当な信心へ向かって進んで行くという生き方。稲垣さんがお夢の中で頂いておられるように。もう皆さんの墓標が合楽の言うならばお広前にはね、もう沢山並んでおらなければいけない。自分を空しゅうした我情を無くした我欲を無くした。一切がね問題があってもその問題がです、即座に解決の出蹴れる位なおかげというのは、そん時自分が死んだ気にならせて頂いたらその場で解決するのだ。
そういう墓標を銘々の心の中に頂いておると言う様な信心、そういう一線上にお互い出ておらなければならない。それ程しに今合楽の信心は高度だと言う事を今日は聞いて頂いた。だからその一線上に出ていない人は、どうでもその一線上に出らなければ、それから先はもう限りがないもの限りのない事。釘づけではないいや釘づけであってはならない。一時でも同じ所にあって良かろう筈がない。それこそ日進月歩と言うが信心こそです、日勝り月勝り年勝り代勝りの信心。又そういうおかげを受けて行かなければなりません。
どうぞ。